ネグリジェ美女のジャケ写にみるギリギリセーフなエロポーズ
【第1回】美女ジャケはかく語りき 1950年代のアメリカを象徴するヴィーナスたち
「Music for Daydreaming」は、ソファで読書中にうたた寝してしまった女性という設定だろうが、どうみてもこれは「白昼夢」ではなく、夜中のまどろみだろう。おまけにネグリジェの肩紐が片方落ちている。
こういうのはもちろん肩紐が落ちてない写真も必ず撮っている。写真のセレクト~デザイン段階で、ディレクターやプロデューサーらが、こっちのほうが売れる!とか言って、写真を決めるのだ。
そこにミュージシャンはほぼ関与しない。自分の顔写真が出るか出ないかは関与するが、美女ジャケという企画になったら、あとはもうマーケティングの世界だからだ。あまりに品のないのはダメだとか言うのがせいぜいだった。
ネグリジェ美女は、なによりもその「透け」感がウリだったが、その透けの度合いにも絶妙な撮影・製版テクニックが反映されている。
スタンリー・ブラックの「Music of Lecuona」でひざまずく美女など、ほとんど裸のように見えるから、どうしても「乳首は見えるか?」と目を凝らしてしまうのだ。
ちなみに指揮者、スタンリー・ブラックは多作家で本人のアップ写真のジャケも多いが、美女ジャケも多い。なかでもこれは最もキワドイ写真だが、ロマンティックに品良くまとめてもいる。
ロンドン・レコードはクラシックの名盤も数多い老舗だから、扇情性のなかにも品を忘れはしないのだ。
もう一枚、透け度で素晴らしいスリー・サンズの「soft and sweet」。ソファに横たわる美女の脚から腰までの透け具合のセクシーさはかなりのもの。ネグリジェなのに口紅は真っ赤で、どうみてもまだまだ眠る気はなさそうだ。そんなふうに眺めると犬をなでる指先の仕草までエロティックに見えてくる。
ヌード・ジャケというのもマイナー・レーベルには存在したが、有名レーベルにはほとんどない。すでに書いたように倫理規制が厳しかったし、大手レコード会社ならではの「格式」もあった。それゆえ購買者にいかに妄想させるか、が重要なテーマとなったのだ。
ネグリジェ美女は、直接にセックスを指し示しはしないものの、これから先のセックスは妄想させた。購買者はレコードを聴いたのち、ジャケをためつすがめつ眺めて、勝手な妄想を繰りひろげるのだ。
30センチのジャケットから美女は動きだし、ネグリジェを脱ぎ始めるかもしれない。どう、妄想するかは購買者の自由。その自由をできるかり拡大するのが、レコード会社のプロデューサーや撮影カメラマンの役目だったわけである。
ところでネグリジェ美女ものは、1950年代の全盛期から1970年代まで続くが、どんどん先細ってしまった。60年代のモダニズムは、活動的なパジャマのほうを流行らせ、セクシーなネグリジェの需要そのものが下降していったからだ。
そんなわけで品良くセクシーなネグリジェ美女ジャケは、50年代特有のグラフィズムとなる。もはやテーマとしても再現できないのだから(ネグリジェ写真など時代錯誤にしか思われないだろう)、当時のジャケをあさる以外にこれを堪能できる術がないのだ。
美女ジャケの誘惑とはそんなものである。